居場所なんてなかった。元No.1風俗嬢の原点。

 

機能不全家族
「わたしはどうやって生まれたの?」

バターンとしまるドア。

破壊的な衝撃音が聞こえるたびに、
わたしはビクッとした。

 

ピンと張り詰める、背筋が縮こまるような冷え冷えとした空気感。

不穏なエネルギー。

父が話しかけても、母は無視を決め込み、
言葉のかわりに物に当たった。

言葉も「ぶつけるように」使った。

 

稼ぎが少なく倹約家がすぎる父を母は軽蔑し、
お金のことについていつもピリピリしていた。

父の存在そのものを、「許したくない」ように見えた。

 

そんな母を避けるように、
父はクラシックや読書など、自分の趣味に没頭、
子どもたちをかわいがった。

当然わたしがなついたのは、居心地のよさそうな方。

こうして「父親っこのわたし」はつくられていった。

 

。。。

 

『「家族のふれあい」なんて空想の産物でしかないんだ』

果てのない絶望があったけれど、

わたしにはもっと素朴な疑問がありました。

『わたしは生まれてこない方がよかったんじゃないか?』

 

(この疑問は、「子どものつくり方」を知った後、
『わたしはどうやって生まれたんだろう?』にかわり、
→セックスって愛し合うからできるんだよね?
→愛し合うから子どもってできるんだよね?
→でも両親はまったく愛し合ってないよね?
→そっか、わたしは愛されていないんだ。愛されて生まれてきたのではない。。
→どうしよう、わたしは「要らないのに存在してしまった!」「いちゃいけない子なんだ」。)
と展開し、わたしの中で定着しました。)

 

ただただ怖くて、人の機嫌を伺ってばかりの記憶を抱え、
長女として育ったわたしは、

喉から手が出るほど
「柔らかくてあったかいやりとり」
憧れていました。

『それが手に入るならなんだっていい』

とってもささやかなことだけれど、
心の底から望んでいたことでした。

 

家庭は、人生で一番最初に所属する社会、といわれています。

一番小さくも、かけがえのない家族という社会で、
「社会での存在のしかた」を肌感覚で学べなかったわたしは

『自分がどんな風に存在すればよいのか』
『人とどんな風に接すればよいのか』
『人との適切な距離感はどのくらいなのか』

長年にわたって、まったくわからないまま人生を送ることになりました。

 

幼稚園に通う頃にはすでに
「なかなかお友達ができないようです」
と何度も先生からお便りをもらうような子でした。

感情の荒れている母を避け
べったり甘えさせてくれる父を
生き抜くためのよすがとしていました。

 

そのくらい「生きづらさ」を抱えていました。

 

今振り返ってみて感じるのは、

「生きづらさ」として感じる”つらさ”よりも
「生きづらさからどう脱却していいかわからない」”つらさ”、
に困っていました。

もっと言うと、それは
「生きづらさから抜け出せた後、どう希望や可能性を見出していいかわからない」”つらさ”、
だったのです。

 

これは、長い年月をかけて自身の壁を越えてわかった気づきです。

 

チアで3度の全国優勝・アメリカ遠征を果たすも。。

理不尽な体罰に納得できず退部してしまったり、
走り込みでケガをし休部を余儀なくされたりなど、

何をやっても中途半端で、
ちっとも長続きしなかった中学の部活。

放課後になると、窓からみんなが部活動に励む姿を
ぼーっと眺めているような子でした。

熱中することとはおよそ無縁だったわたしは
高校は、はなから帰宅部を想定していました。

ところが、先輩方の圧倒的なダンスに魅せられてしまったのが運のつき!?

創部以来、全国優勝を総なめにしてきた強豪チームで
みっちり3年間、まったく想定外だったチア人生を送ることに。

 

わたしは、振り覚えが悪く、踊ることが下手っぴでした。
もっと下手っぴだったのは、踊っているときに自然な笑顔をつくること。

ちゃんと笑っている自覚があっても
「笑顔がつくれてない」「怖い」
と言われることがしょっちゅうでした。

わたしは知りませんでした。
自分がまともに笑うことさえできないだなんて。

ショックでした。

けれど、
どんなに下手っぴでも、踊ることは楽しかった。
嬉しかった。

そんなとき、わたしは「わたしでいられること」の喜びの中にいました。

これが、人生ではじめて
「わたしがわたしでいられることの心地よさ」
を知ったときです。

 

。。。

 

「劣等感の塊」のわたしは、
とにかく認められたかった。
大会に出たかった。

セレクションで選ばれなきゃ!!
けれど、いつも自信がなくて、不安でいっぱいでした。

 

今思うと、

望むことだけ一人前で、
たいした努力もせず、

精一杯「実力より大きく見せようと」してたな、
見栄とプライドばかり立派だったな、
と感じます。

これぞ、無駄な努力、ですものね^^

「はりぼて」はやがて、その正体と向き合わねばなりません。

 

。。。

 

気力・体力・筋力すべてがへなちょこでも、
チームの力というのはすごいもので、

全国優勝という
自分だけでは決して成し遂げられなかったことが現実になりました。
(総合優勝も含めると、全部で4回)

 

わたしたちの演技の直前になると、
それまでざわついていた会場が、
一瞬で水を打ったようにシーンとしずまり、
まさに、「固唾を飲んで見守る」空気感に変わりました。

ダンスの一糸乱れぬ動きと、
一気に展開するスタンツ、

まぶしく照らされる照明の中で、
“演者も観客も一体となる体感”は
格別としかいいようがありません。

最後のポーズの後の割れるような拍手は、
いつまでも鳴りやみませんでした。

そこに居合わせた人みんなで創りあげた喜びと、
自分たちの努力だけでは生み出せなかったエネルギーが、
そこにありました。

この感動がのちに「接客での肝」となることを知ります。

 

海外遠征では、大会参加だけでなく、
シーワールドやユニバーサルスタジオ、ディスニーワールドにも
遊びに行くことができました。

言葉は通じなかったけれど、
アメリカのチアリーダーたちとのコミュニケーションは印象的でした。
彼女たちとの、主にボディランゲージでのやりとり、に夢中で、
会場となっていたユニバーサルスタジオでは、
ひとつもアトラクションを楽しむことなく終わったのですから(笑)

 

。。。

 

この時期は、家族の中で「ヒーロー的役割」を担っていたように思います。

今思うと、あさはかだな、と思うのですが、

「華々しい結果を出せば、”家族がひとつになる”きっかけになるかもしれない」
と思ったからです。

密かに抱いていたささやかかつ切実な夢でしたが、
結果、家族それぞれが、それぞれの関わり方をしたにとどまりました。

 

「華々しさやがんばりは、しあわせとはイコールではないんだな」
と思ったことを思い出します。

本当は、しあわせになるのに条件などひとつも要りません。
当時のわたしには到底気づけることではありませんでした。

 

「心がふんわり軽くなった」人生初の美容室。
シャンプー専門、たった15ヶ月の美容師人生

少しだけ時系列が遡ります。

わたしは幼い頃から中学2年生まで、
母親に髪を切ってもらっていました。

初めての美容室体験は、
お友達のお母さんのお店でのカット&ブロー。

お店を出た後の”軽やかさ”は、
その後のわたしの人生にとてつもないインパクトを与えました。

髪型が変わった物理的な”軽やかさ”だけではなく
心の質量が変わる”喜び”が全身を駆け抜けたのです。

 

『心の状態が変えられるって、なんてすごいことなんだろう!!』

 

【心がふんわり軽くなる】感動にただただ惹かれ、
何の疑問もなく美容師を目指しました。

そして、地方の美容室に就職。

しかし、そこでは1年シャンプーに徹しただけで、
技術者(スタイリスト)への階段を上がることなく、
人間関係になじめずじまいで、
わずか15ヶ月でクビになりました。

 

いただいていたお給料は10万円で、
講習会費など出費も多く、

毎日の営業後の練習、
休日は講習会でほとんど潰れ、
時間的ゆとりは一切ない。

美容室という小さな社会で居場所を見つけることができず、
消耗しきるばかりで、

あのとき感じた
【心がふんわり軽くなる】感動のことは、
すっかりどこかに行ってしまっていました。

 

それが、あるできごとを境に、
肌身で感じられる日々を過ごすことになろうとは、
当時はまったく想像だにしていませんでした。

 

 

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