我慢という名の「気を遣う」は、もうやめよう。

こんにちは、元No.1風俗嬢ゆーきです。

 

ある朝のやりとり。

今回は父の病気の話を通して、
お届けしたいなと思います。

 

父とは仲良しです。

毎朝出かける前のはぐはぐは、
素敵な習慣なんじゃないかなと個人的に思っています。

 

家族で「ぼく地球」の話が通じるのも父だけです。
(「ぼく地球」→「ぼくの地球を守って」という漫画)

 

父にはわりと過保護に育てられたからか、
わたしも人を過保護にしがちなのですが、

(どちらかというとビシバシやる役割よりも、
フォローの役割になるケースが多い気がしています)

 

そこからの学びは深いです。

 

自分の苦手なことをさらりとやってのける人は本当にすごいし、
そのやり方が、その人にとっての人生の「学び方」。

 

人の「学び方」はいろいろだなと思います。

 

それでは、本題に入っていきたいと思います。

 

エネルギーを自分以外のものに向けすぎて、
自分をないがしろにしながら気を遣ってきた父に向けて、

これからは自分のためにエネルギーを使う、
そういうのもいいんじゃないかな、

そんな提案のお話です。

せっかくなら『はぐはぐ死』にしようよ

自分のことを受け止める

今夏、動悸・息切れを機に精査入院した父。

心臓の検査を進めていた途中で胃がんが見つかり、
胃と心臓、
2つの手術が必要だとわかりました。

 

結論を先にお伝えすると、

「何もしない」

父は自分でそう決断し、
自宅に戻りました。

なにかしらを受け容れたと思われる父の表情は、
どこかすっきりしていました。

 

季節は変わり、冬。

 

「意識が現実をつくる」

と知ったからといって、

いきなり意識を切り替えられるかというと、

そう簡単にはいかない、
という意識が邪魔してしまうことの方が、
多いのではないでしょうか。

 

長年使い続けたパターンは、

「わかってるけどどうにもならない」
「変わりたいけど変われない」

などの言葉でもって、

また、

自分自身に当てはめてみたとき、
他者を見てみたときに、

“なかなか手ごわいもの”
だということがよくわかると思います。

 

「意識が現実をつくる」

思いついたこと、想像したこと、だけを
わたしたちは現実にできます。

想像は創造。

補足

確信へと変わるものを積み上げていったら、
ぱぁっとビジョンが見えた、
みたいなことが起こるのも、
想像から遡った「今」を積み上げていったから、

そういった創造もあります。

 

「イメージしたものがすでに叶っている状態を生きる」

 

そのトライを何度も試している人よりも、
試したことのない人の方が難しいはずだし、

 

「理想(望み)を生きる」ことよりも、
「一般的にそうだと言われている価値観念」の方に、
意識は引っ張られやすいもの。

 

特に、症状としてありありと認識させられる場合は特に、
「意識を望みの方向に向ける」ことは至難の業と思っていいでしょう。

 

その日は父が、

「真夜中に目覚めたときにくだらないことを考える」

と言っていたので、

どんなくだらないことなのか聞いたら、

「自分はどんな原因で死ぬのだろう」

ということでした。

 

「せっかくなら『はぐはぐ死』にしようよ」

 

勝手に口をついて出た言葉。

 

父を励ますためというよりもむしろ、
わたし自身のために言った言葉なのでしょう。

 

どのみちいつか肉体を離れるということは、
今のところ100%の確率で誰もに訪れること。
(近い未来「死は選択できるようになる」といわれています)

その順番も、
順当にいけば親が先、子が後、
でなければ親不孝、
などと言われたりすることもあるけれど、

魂の今世での設定、という視座からすると、
そうでない場合もままあること。

 

愛と同じように、
死も存在することも理屈を超えているし、

死や離別ですら愛だと思っている。

 

こういう価値観は人それぞれでよくて。

たまたまゆーきはそう観じている。

 

父は、

「あと何回はぐはぐできるだろうと思うと、その一回一回が濃い」と言う。

先日は、離れて暮らす次女とのハグで「涙が出た」と言った。

たまにするハグだからなおさら、

感じるものがあるのが自然でしょう。

 

わたしが幼少の頃にはすでに、
両親の関係性は冷たいものになっていたこともあり、

その前の、
父が生まれてから結婚するまでのエピソードをつまみ聞いただけでも、

常に誰かのことばかり気にして、
肩身の狭い想いをしてきたのだな、

ということがわかります。

 

父は、
自分は愛されている、大切にされている、必要とされている、
と感じることを麻痺させ続けて生きてきたような人。

 

この2つの大病を機に、
その感受性にあたたかい血が通いはじめたことは、
娘の目から見てもただただ嬉しく、

 

不安や怖れで押しつぶされそうになっても、
もうひとりぼっちにならなくていいんだよ、

いうことを、
日々の他愛のないやりとりで体現していくことで、

父がほんのわずかでもほっとできたらいいな、

と思うのです。

 

伝わるように届けられたら素敵だけれど、
「ただわたしがそうしたいからそうする」
みたいなこと。

 

『笑顔が見たい』

 

ついこう思ってしまうのも
わたしの中にあるパターンのひとつ。

「自分をないがしろにする」方向に作用してしまうこともあるけれど、
「心からよかったと思う」方向に作用することもある。

 

「笑顔が見たい」という望みから得られる学びはさまざまだと知っておくと、
現象という結果(できごと)から、
「何が前提になっていたのか」を知ることができる。

 

自分を守るため、だったのだろうか。
受け容れるため、だったのだろうか。

 

受け容れるつもりが、守りに入っていた、という経験を重ねながらも、
まさに薄皮をはぐように、
怖れる自分を許し、受け容れられる容量を大きくしていくことができる。

 

怖れを避けようとするのか、
怖れの中に飛び込んでいこうとするのか、

この違いの決め手は、

「本来の自分を生きる」(望みを叶えるをやりきる)

の意識づけをしたかどうか。

 

「せっかくなら『はぐはぐ死』にしようよ」

の提案のあと、

「たぶん腹上死の次にしあわせなやつだよ」

と言ったのはいうまでもありません(笑)

 

人のぬくもりの中で死ねるって、
想像するまでもなく幸福度高いじゃないですか。

 

今回のできごとを機に、
「幸福度」というワードをよく使うようになった父のユーモアがわかる返答です。

 

「じゃあ予約ね」

 

自分ができることを選ぶ

「真夜中にくだらないことを考える」

この何気ない、
ともすれば何も気にせずスルーしてしまいそうな言葉すら、
実は、こぼすのにとても勇気がいったのではないかな、と
感じています。

 

人はこんな風にサインを出していることが、
案外多いのではないでしょうか。

 

受け取ってほしい。
気づいてほしい。

 

つらい、怖い、不安、
そういうときは特に。

 

けれども、
一般的に「助けてのサイン」は、
誰にでも言えるものではありません。

なぜなら、
それを受け止めることのできるキャパのない人から、
ひどい拒絶や非難をくらうからです。

また、
たとえキャパがある人だったとしても、
ちょうど人生が立て込んでいるタイミングだったりすると、

「ごめん、今いっぱいいっぱいで対応できない」、

といった否定に遭うこともあるからです。

 

相手に嫌われないように、
嫌々ではなく受け取ってもらえるように、

何重にもオブラートに包んで、

気づいてほしい相手に、
想いを共有してほしい相手に、

そーっと「だいじなサイン」を出してみる。

 

けれども、

目の前に課題が立ちはだかっている人と、
そうでない人とでは、

そもそもエネルギーが違う、ということもあり、
伝わりづらかったりします。

 

同一人物でも、
ラッシュアワーに満員電車に揺られているときと、
休日に公園でぼーっとくつろいでいるときとでは、
エネルギーが違いそうだなということは
たやすくイメージしやすいのではないでしょうか?

 

深刻なときはのんきにはいられないものだし、
焦っているときはのんびりなどできない。

 

エネルギーそれぞれは
互いに補い合う関係だけれど、

相反するものゆえ、
「今は無理」ということになりやすい、

 

と覚えておくと、
無防備すぎて痛い目みる的なことは、
激減していくと思います。

 

どちらもあって、どちらもアリ、だからこそ、

わたしたちは、
不安の中に安心を見ればほっと安らぐし、
安心の中に不安を見れば怖れが湧く。

どちらか100%などということはなく、
常に変動的なのが自然だと感じることができたなら、
その自然の中にたゆたうことができる。

 

サインを出すときは緊急性を帯びていることがほとんどだから、
出す方の心境としては、

「なんとしても助けてもらいたい」

でも、期待した通りにならないことが多いのもまた事実で。

 

すると、
どうせ届かないのならと、

そーっと出そうとしていた「だいじなサイン」を
引っ込めてしまいます。

こうして、
傷つかないようにするパターンが、
またひとつできてしまうのです。

 

「なんとしても助けてほしい」
「サインを受け取ってほしい」

という期待から、

「受け取ってもらえるかどうかよりも、
サインを出せること自体がすごい」

と、

できないことからできることに、
叶えられないかもしれないことから確実に叶えられることに、
自分の中での設定を変えていくことで、

他者に期待しても期待しなくてもいい自由が生まれ、
結果、期待通りにならない不満が減り、
自分をないがしろにしてしまう「我慢」が減り、
自分をないがしろにすることのない「気を遣う」ができるようになっていきます。

 

人を変えることはできないけれど、
自分を変えることはできる、
というのを具体的に言うとこういうことなのかな、
とゆーきは解釈しています。

 

と同時に、

できること(確実に叶えられること)に意識を向けはじめると、
自発性が育ってきます。

 

自発性が育ってくるとどういうことが起こるかというと、

人に期待しなくなっていきます。
期待しなくなった分「してもらったことへのありがたさ」への感受性が高まります。
変に期待されない分(プレッシャーやストレスがかからないため)、その相手も楽になれます。

関係性が優しいものに変わっていくさまは、
依存体質が解消されていくプロセスでもあるな、
とゆーき自身を振り返ってみてそう感じています。

 

「自分のことをないがしろにしている」自分

貢献に通じる「好きなこと」をやる

早朝と夕方にお散歩に出かける父です。

精査入院後はウォーキングポールを装備し、
日常のルーティンに戻っていきました。

 

これも考え方はさまざまなのですが、

 

やりたいことをすべてやめさせて養生に徹させるよりも、
やりたいことをそのときの体調に合わせてできる分だけやる、という方が、

どれほど満ち足りることか、

と父を見ていて思います。

 

父は退職後15年ほど、
市や区のボランティアでも清掃作業員でもなんでもなく、
個人的な思いから地域の美化活動を日課にしていました。

金銭の授受もなく、
勝手にやっていることに対して、
最初は否定的なことを言う人もいたそうです。

はたから見たら不審者にしか見えないでしょうから当然なのですが。

 

それが年月を経るにつれ信頼を獲得し、

ちょっとした差し入れをいただくことにとどまらず、
お悩み相談的なことを受けていたり、
小学校の総合学習かなにかで小学生から取材を受けて発表会に招待されたりなど、

さまざまな苦労なことも含めた、
たくさんの豊かなエピソードが詰まった15年に。

引っ越しを機にその活動をやめる際には、
何人もの方から惜しまれたようです。
(中には、この後誰が掃除してくれるの?と訴えた人もいたとか)

 

好き勝手にやっていることは、

誰かにとっては迷惑であり、
また別の誰かにとっては感謝でしかなく、

そういう風にできています。

 

どんなことをしようとも、
歓迎も拒絶も、
感謝も批判も、
自然と生まれてしまうものです。

それを、
なくそうと試みたり、
避けようとしたりするから、
不自然になるのです。

 

誰かを気にして「やらない選択をする」必要も、
誰かに嫌われないように「媚を売る」必要も、

『いらない』

ということがわかれば、

自分自身でつくった制限を外して、
自由に生きることができます。

 

結局、
何をやっても一定層からは好かれ、
一定層からは嫌われるものだからです。

 

「好きなこと」をやるばかりです。

 

「無自覚」に気づく

自然と身体が動いてしまうこと、というのは、
頭や心で想う「好き」を超えたところにあったりします。

「好き」とすら思わない(「好き」すら無自覚)、
そのくらい「自然」、
そのくらい自分にとっては「当たり前なこと」、

 

いくらでも取り組める。

 

今世での課題というのは、
けっこうそういうものに込められていて、

 

その取り組みを通して、
自分にぴったりの「気づき」を得ながら、

自分の中の許せないものを許せるように、
受け容れられないものを受け容れられるように、

「変えていく経験」を日々重ねているのです。

 

逆に、我慢してやりたくないことをやる生き方だと、

自分を守る(生き延びる)ために、
許せないものは見て見ぬ振りをして、
受け容れられないものすら”まるっと”受け容れてしまう、
といったことをやりはじめます。

やがてそれは自動化してしまい、

「嫌だ」が言えない、
いつも誰かに遠慮した姿勢を貫いてしまう、

“自分をないがしろにした生き方”を、
無自覚で生きるようになってしまうのです。

 

無自覚、ということは、
自分でそうなっていることに気づけない、ということ。

「本来の自分を生きる」と言われても、
おそらくピンとくることはないでしょう。

 

しかし、実は、うっすらとは気づいているのです。

 

「このままじゃだめだ」
「これじゃあ何も変わらない」

「何かしたい、でも何していいかわからない」
「こんな自分にいったい何ができるのだろうか」

 

こうして望みと現実の自分との葛藤が起きたとき、

どういうことが起きるでしょうか?

 

面白いことに

たいてい「望まないことを選択」をして、

葛藤という不安定な状態から、
葛藤を手放した安定した状態へと戻っていくのです。

 

なぜかというと、

現状を変えない「慣れ親しんだ安心」は、
疑問にすら思わない(思考停止した状態)でいさえすれば、
すぐ手に入るものだからです。

 

その代わり、

現状を変えない苦痛はたえまなく続き、
望みを感じないよう麻痺させたまま、
人生の歩みを進めることになるのです。

 

「無自覚」を気づくには、

人生の中で、
何度も同じサインがやってくることで、
気がつくことができます。

また、
大きく感情を揺さぶられるときは、
そこにサインがあるとみてよいでしょう。
(その感情を味わい切ればサインは消えます)

逆に、
思考をめぐらせても、
見つけることはできないでしょう。

なぜかというと、
思考はパターンを生きているからです。

パターンでくるんだ内側にアクセスするために、
パターンを読み解こうとしても
そこに答えを見つけることはできないからです。

もっと言うと、
パターン(思考=自分にとって都合のいい正論)をすべて、
逆に解釈していくことができれば、
「無自覚」にたどりつくことができるはずです。

 

よく、疑ってかかれ、と言われるのは、
このような意味だとゆーきはとらえています。

 

「自分軸で生きる」をやりきる

貢献っぽくない「望み」すら貢献

「貢献」というと、

誰かに対して何かをしてあげること、

が浮かびやすいのではないでしょうか?

 

わかりやすいのは問題解決です。

困っている人の困っていることに手を貸すことで、
その人の望みの方向へと背中を押すこと。

 

けれど、
それ以上の「貢献」がある、
とゆーきは思うのです。

 

それは何かというと、

「その人がその人らしく存在すること」。

 

「あなたはあなたのままでいればいい」、

と手を差し伸べること。

 

何かをすることの価値もだいじだけれど、
「あなたがあなたらしく存在すること」はもっと価値がある。

あなたが大切、という本質。

 

アナ雪の「ありのままで」があまりにも有名になりましたが、

自分の個性のままに生きはじめたとき、
周りもその生き方に同調していきます。

 

隠したりごまかしたりしていたのでは決してわからない、
その人それぞれの「凹」「凸」の特性が、

わかりやすくあらわれることによって、
その人独特の魅力が放たれ、

関わり合う人たちの「凹」「凸」が、
生かし生かされる世界になっていくからです。

 

これ以上の貢献があるでしょうか。

 

一見、
「全然貢献っぽくない」、
と感じられるかもしれません。

けれども、
魂の望みは「本来の自分を生きること」。

自分自身とつながるために、
最も効果的に「気づき」が得られるように、

親を選び、
生まれ育つ場所を設定し、
できごとを選び、
出逢う人を決め、
別れるタイミングを決め、
人生を終えるときを決めています。

 

また、
自分自身を生きることは、
他者の人生にとっての「脇役」を、
完璧にこなすことにも通じます。

 

「めいっぱい嫌われ役やってね、わたしがんばるから」
「わかった、まかせて」

 

というやりとりが、
魂同士であったかどうかはさておき、

 

本当は嫌われ役を設定したはずなのに、
いい人ぶった嫌われ役を演じていたのでは、
話になりません。
(まぁ、そういったぐずぐず含めてシナリオだったりするのですが)

こっぴどくひどい役回りをやりきった時点で、
その他者の人生が新たなステージへと転じていく。

 

人生を後押しするという意味ではめっちゃいい人だけれど、
役回りという意味では「嫌われ役」。

どの視座でみるかによって解釈が変わることを知っていると、

上辺だけのいい人にとどまり続けることへのこだわりも、
簡単に外れるかもしれません。

 

人生を後押しするという意味では、
誰もが「いい人」にしかなれない(つまり貢献)。

 

ちょっと面白いと思いませんか?

 

小さな愛される経験が「自分軸」をつくる

「自分軸」は、
「自分が自分で在ること」にエネルギーを注ぐことによって、
つくられていきます。

太くしなやかでうるおいのある「自分軸」であれば、
多少の衝撃にブレることはなくなります。

たとえ影響があったとしても、
状況にたやすく飲まれてしまうことはなくなるでしょう。
(静かに見守る視座があることからそれがわかります)

 

逆に、
自分以外のものにエネルギーを注いでしまった人の「自分軸」は、
枯れ枝のように細く乾いていて、
わずかな衝撃でぽっきりいってしまうもろいもの、
と思ってよいでしょう。

「心が折れる」という表現は、
うまいこと言うな、と感じています。

 

また、自分軸などなく浮き草のようにふわふわしている場合もあるでしょう。

軸を定めないメリットは、
「心が折れる」経験を避けるため。

「人生なんの問題もない」
としていたい欲求を叶えている姿、とみることができます。

 

これは一見楽そうなのですが、

自分のやりたいことがわからない、
誰のために生きてもなにやら空しい、
表面的に忙しく立ち回るばかりで、
物事を深く掘り下げることができない、

といった具合で、
エネルギーをすり減らしてしまう生き方です。

 

傷ついても死なない、
そもそも魂は傷つかない(すべては経験値になるだけ)、

こういうことがわかるだけで動き出せる場合もありますが、

「傷ついても大丈夫だよ。
ちゃんと癒す力が具わっているから」

という保護膜的な関わりの経験値が必要なことが多いでしょう。

 

存在まるごと受け容れられることを経験し、
十分満たされた後は、勝手に巣立っていきます。

それは、「生きる力がついてきた」ということ。

そして、必要に応じてまた戻ってきます。

 

そこにいるという三次元的な居場所のことではなく、

「あなたは存在していていい」という、

存在自体のよりどころ、みたいな居場所。

 

時間も距離も空間もないけれど、
許され、受け容れられている、という

「揺るぎないもの」。

 

家族では無理だったことも、
ソウルファミリー的なご縁の人との間で、
叶えられることもあります。

大切に扱われること、
自分のために時間も労力も惜しむことなく与えてくれる人がいること、

振り返れば小さなエピソードにすぎないことであったとしても、
愛される経験はのちに「自分軸」の一部になっていたりするのです。

 

「自分軸」もことあるごとに更新されていきます。

知識、情報を得るたびに、
魅力的な人と出逢うたびに、
生命を考えさせられるたびに、
愛し愛されることに触れるたびに。

そして、
自分自身の不要なパターンを手放したときは、
世界ががらりと変わったように感じるでしょう。

 

感受性豊かに、
受け取ったものを行動に変え、
望みを現実のものにしていく。

 

父も手術をしないと決めたとき、
もう無理して「いい人」「できる人」をなるのはやめよう、
迷惑をかけたくないと思ってもかけてしまうのだから、
我慢をするのはよそう、
と思ったそう。

 

長年の習慣は変えられなくとも、

「それってホントはこうなんじゃない?」

と遠慮や我慢ではない方を、
やりとりの中で提案することができます。

 

そうして意識にのぼらせたうえで、
それでも遠慮する方を選んだりすることもあるけれど、

反射的に一択だけ適用する「パターン」を生きるよりは、
ずっと違った、選択できる豊かさ、を生きることができます。

 

「自分軸」のない、
自分自身をないがしろにする我慢で気を遣われても、
人は嬉しくありません。

なぜなら、
そこには知らず知らずのうちに、
被害者意識が込められてしまいやすいからです。

また、
今は自分はあなたほどには必要としていないのでどうぞ、
という意味での我慢の場合は、
「気を遣う」ことに抵抗もなければ、
「自分軸」をおびやかすものでもないため、
穏やかな状態を保ちます。

 

そもそも、
自分の中でのこだわりが減ってくると、
いい意味で「なんでもよくなってくる」ので、
人に譲ること自体が自然なことに変わってきます。

そして、
「これ欲しい」と思ったときは、
素直に”思った瞬間に動くだけ”なので、
我慢も抵抗もありません。

 

よくパターンの話をするのですが、

それはなぜかというと、

望みを叶えることにブレーキをかけてしまうのが、
パターンだからです。

 

自分を発展的に生きさせてあげるためには、
今の自分を守り続けようとするパターンを、
ほどいてあげる必要があります。

守る必要があるということは、
傷つけられる怖れにおびえているからで、
これ以上傷つけられてはもたないからで、

「もうその必要はないよ」

と納得させてあげられたとき、
はじめてパターン不要となるのです。

 

パターン不要と認識できた後も、
パターンによる反応は起きます。

けれども、
しくみがわかった後では、
受け取り方も変わります。

やがて反応自体が
どんどん小さなものへと変わっていきます。

 

面白いですよ。

 

どういうことかというと、

これまで無理だと思っていたようなことが、
「わたしにもできるんじゃないか」
と思えるようになり、
実際形にしてしまったり、

これまで苦手だったタイプの人とのやりとりも、
穏やかに対応できたりするのです。

自分の世界が開かれる、ということはまさしく、
生きやすくなる、ということ。

 

「自分軸で生きる」は、
可能性を形に変えられる、ということ。

生命の長さは関係ありません。
望んだものを形にするばかりです。

 


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